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活動履歴

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石田寛の主な活動履歴をご紹介いたします。

NPO花岡平和記念会アジア・アフリカ救援米活動
長木川に鮭をのぼらせる会

NPO花岡平和記念会
中国人強制連行がもたらした花岡事件を風化させず後世に伝え、子々孫々まで日中友好を引き継ぐために6.30中国人殉難慰霊式に花岡平和記念館建設しました。

NPO花岡平和記念館オープニング

 2010年4月17日、NPO法人・花岡平和記念会(川田繁幸理事長)が秋田県大館市花岡町に建設した花岡平和記念館のオープニングセレモニーを行った。
 当日は、花岡事件の幸存者や遺族、地域住民が約150人参加し開館を祝い、花岡事件を風化させず後世に語り継ぐことを誓い合った。

 はじめに、川田理事長や佐竹敬久秋田県知事、小畑元大館市長、幸存者の李鉄垂さん、中国大使館蒒剣参事官、福島みずほ内閣府特命担当大臣らがテープカットを行った。
 川田理事長は「記念館は加害の地に加害およびその前後の事実を記録するものでわが国では異例のものといわれるかもしれません。第二次大戦中に中国から38,935人の方々が135の事業所に強制連行され過酷な労働と虐待により、6,830人の方々がお亡くなりになりになりました。花岡事件は中国人強制連行の象徴的な事件と言われますが記念館は、花岡で起こったことを中心に強制連行に限定してという意味で記録する全国の唯一の施設になります。正しく将来に向き合おうとするなら過去の事実と向き合い、若い世代がなぜ虐待が起きたか、中国の方々がどのような思いを抱いたかを考えることによって人間愛や正しい国際感覚をもち、これからの社会の在り方の指針が与えられるものと思います。」と述べた。

 福島大臣は、「多くの皆様が募金活動をして開館にこぎつけたこと、幸存者、遺族の方々が中国から来られたことに歓迎と敬意を表します。開館は二つ意味があると思う。一つは秋田県、大館市で『6月30日』の歴史を心に刻んで慰霊式を行ってきた長い歴史です。市民の皆さんが一緒にやってきたこと。それが記念館に結実したと思います。二つ目は私自身アウシュビッツなどいろんな記念館に行くようにしている。加害を行った場所で、加害の地の人と被害にあわれた人とが力を合わせて記念館作ったのは世界で最初かもしれない。そのことの意味が大きいと思います。受難者の皆さんを心から追悼し、歴史と事実を心に刻み、未来をともに切り開いていけると確信しています。」と祝辞を述べた。

 また、蒒剣参事官から川田理事長に対し、程永華大使が看板の題字にと揮毫した書が贈られた。この後、来賓の皆さんは川田理事長の案内で会館内の展示について説明を受けた。この開館式に参列した池田香代子(ドイツ文学翻訳家)さんは、前日の記念講演会で「地元の皆さんは花岡事件を負の遺産として考えるのは痛いほどわかるが、事件関係者が中国から花岡を訪れ、心が癒され第二の故郷と思うという話を聞く。それは、自治体が慰霊式を長い間行っていることを知り、地元の皆さんが暖かく迎えてくれるからであると思う。これを機に負の遺産でなく「富」の遺産として子供たちに伝えてほしい。」と語った。

◎記念館開館について

4月~10月まで
金・土・日・月の10時~3時まで
*但し事前に連絡がある場合は見学が可能です

問い合わせ先

〒017-0885 秋田県大館市豊町2番37号
TEL 0186-42-6539
FAX 0186-43-1302
E-Mail:apoc@ruby.ocn.ne.jp

振込先:郵便局口座番号 02230-3-76515
加入者名:特別非営利法人 NPO花岡平和記念会
入会金 1000円
年会費 3000円

花岡事件とは

私たちは、戦時中の中国人強制連行を象徴する「花岡事件」がおきた秋田県大館市で、虐殺された418名の中国人犠牲者の、古くは遺骨送還を、今では毎年の慰霊活動を行い、又、生存者・ご遺族との交流を通じて、かつての加害の地から平和を発信する取り組みにかかわっております。

 第2次世界大戦のおり、日本は中国大陸に侵略戦争を展開し、現地での労働力確保のため中国人の捕虜、民衆を使役し、侵略が拡大するにつれて、その範囲も拡大しました。 同時に、徴兵強化により日本国内の労働力も不足をきたし、特に戦争遂行に欠かせない鉱業関係でその傾向は顕著でした。 当事の東条内閣は、1942年11月「華人労務者内地移入の件」という閣議決定で中国人強制連行を国策として遂行しました。

 秋田県大館市。 青森、岩手、秋田という北東北3県のほぼ中心に位置するこの地方は、古来から銅の産地であり、当事の北秋田郡花岡町には藤田組(現在の同和鉱業)の花岡鉱業所がありました。 銅の戦時増産体制が敷かれる頃には、労働力が不足し、中国人強制連行に負うところが大きくなりました。

 藤田組の土木部門を請け負っていたのが当事の鹿島組であり、3次にわたり986名の中国人が強制連行され、「中山寮」と呼ばれる施設に収容され、苦役を強いられました。 このうち418名は中国の地に生きて帰ることができませんでした。

 これは厳寒の地にあって寒さと飢えを凌ぐには程遠い衣食住しか供されず、極度に劣悪な衛生状況の下、限界を超えた過酷な労働を強いられ、さらに補導員が筆舌に尽くし難い虐待と凌虐の限りを尽くした結果にほかなりません。 その死亡率は約42%に達し、死亡者数の多さと合わせ、日本国内でも有数の劣悪な実態を示しております。

 花岡では、過酷な労働と虐待に耐えかね、1945年6月30日、「民族の尊厳、そして人間の尊厳を守るため」一斉蜂起し、近くの獅子ケ森などに逃走しますが、それは失敗に終わります。 憲兵隊、警察に現地の民間人をも加えた圧倒的多数の日本人により鎮圧され、鉱山の娯楽施設「共楽館」前広場に3日間、炎天下に数珠繋ぎにされ、虐待が加えられ、この間だけでも100人以上が虐殺されました。

 連行された中国人のうち、首謀者は、戦時騒擾罪として送検され、11人が起訴され、敗戦後の9月11日、無期懲役1人を含む判決が秋田地方裁判所で下されました。 この出来事は、戦後秋田に進駐したGHQの知るところとなり、鹿島組の補導員及び地元警察はBC級戦犯を裁く横浜裁判にかけられ、死刑3人を含む6人が有罪とされました。(後に減刑され死刑執行はなし)

地元の運動

 戦後、花岡事件は、地元における加害意識も手伝って、「負の遺産」については語られないことが通例となっていきます。そんな中。1949年8月、地元の朝鮮人連盟に属する金一秀、李鐘応の2氏が、散乱している中国人の遺骨を発見して「留日華僑民主促進会」に連絡し花岡事件が世に知られることになりました。その後遺骨を預けられた信正寺住職の訴えを無視してきた鹿島建設は、1949年10月、中華人民共和国が誕生すると、ようやく寺の裏手に「供養塔」をつくりました。翌50年10月から11月にかけて、地元と東京で慰霊祭が開催されました。

 こうした運動の積み重ねと総評、日本仏教連合会等の国民運動の結果、53年7月の第1次遺骨送還で祖国への帰還が実現しました。60年4月、散乱する遺骨が再度発見され、63年6月には全国に呼びかける「一鍬運動」を展開、500名を越す参加者の手で12箱の遺骨を収拾しました。この時、十瀬野公園に「中国人殉難烈士慰霊之碑」が建立されました。66年には、全国に呼びかけるとともに、毎戸訪問によるカンパ活動を展開し、市民運動の結晶として、中山寮を見下ろす小高い丘の上に「日中不再戦友好碑」を建立しました。翌67年、花矢町(旧花岡町)は合併して現在の大館市になりその後は市民団体が慰霊行動を継続してきたものの、時と共に風化は進みました。

 こうした流れに歯止めをかけるべく、若い労働者を中心に事件を語り継ぐ早朝行動が始まり、85年には大館市主催の慰霊式が市民体育館を主会場に挙行されました。この慰霊式を契機に、中国から生存者やご遺族が来日され、市主催の慰霊式に参加されるようになりました。そこでは、慰霊式と現地実行委員会が実施する関連行事を通じ、中国からの方々と多くの市民が交流を重ねてまいりました。

裁判と和解

1989年12月、花岡事件の生存者・ご遺族が「花岡受難聯誼会」を結成し、鹿島建設に「公式謝罪」「記念館の建設」「補償」の3項目要求を提起しました。90年7月、鹿島は聯誼会との「共同発表」において、「深甚なる謝罪の意」を表明し、3項目の一つは実現しました。残る二つについては、共同発表後の交渉が進展せず、花岡事件から50年目にあたる95年6月、ついに東京地裁に提訴することになります。

 1審は門前払いの判決でしたが、東京高裁において、20世紀もあと一ヶ月足らずとなった2000年11月9日、職権により勧告された和解が成立しました。その内容は、90年の共同発表を再確認のうえ、鹿島側が中国紅十字会(中国赤十字会)に5億円を信託し、「花岡平和友好基金」を設立して全体解決をはかることになりました。11人の原告が986人の問題解決をはかるスキームは、画期的といえます。01年6月30日、和解後初めての生存者・ご遺族、中国紅十字会等の関係者40名余りが、02年にも同様に50名余りの方々が花岡平和友好基金の慰霊活動として大館を来訪しました。現地を訪れるご遺族は、この旅を通じ、現地での多くの生存者から語られる肉親の死を50年数年ぶりに実感として受け止めることができ、生存者も往時の無念さに思いを馳せることで、慰霊の感を深くされております。

NPO花岡平和記念会

 生存者とご遺族の発見以来、毎年大館市で開催されている慰霊式に多くの中国の方々が訪れることになりました。はじめは当然のことながら、反日感情が強く、頑なであった生存者やご遺族が、全国の支援の方々や現地で温かく迎える人々と触れ合うことにより、次第にわだかまりが氷解し、かつて地獄のような労苦を味わった、あるいは、かけがいのない肉親を失った人々が、長年の深い傷を癒すことができた、そんな声が徐々に沸いてきたように見受けられます。大館の地で花岡事件の支援を通じ平和を希求する私たちは、毎年、生存者とご遺族を受け入れ、関連するフォーラムの開催や現地フィールドワークの実施のために「6.30実行委員会」を構成してまいりました。

 しかし、2000年11月の和解成立を受け、恒常的に花岡事件に触れ合うことで、次の世代にこの「事件」を語り継ぎ、更なる交流により、かつての加害の地から真の平和を発信することを目的に、01年5月、「日中平和大館会議」を結成し、その発展的な形態として、02年6月、NPO法人「花岡平和記念会」を設立しました。この法人の活動目的の一つは、これまでも実施してきた様々な活動の継続であり、もう一つは、花岡事件を記録し、全国から当地を訪れる皆様を現地にご案内するための施設として「花岡平和記念館」を建設し、常設の資料展示場と現地フィールドワークのベースとして活用したいということです。先に述べた3項目要求の残された課題が、この「記念館建設」であることからも、草の根的に全国に呼びかけ和解から10年後の2010年4月17日に開館を迎えることができました。
これまでの全国の皆様からの絶大なご支援ご協力に感謝申し上げます。

役員

理事長 川田 繁幸
副理事長 田中 宏
副理事長 谷地田恒夫
理事 内田 正敏
理事 猪 八戒
理事 伊藤治兵衛
理事 石田 寛
理事 鈴木 泰人
理事 誉田 正司

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アジア・アフリカ救援米活動

2000年からアジア・アフリカ支援米活動に取り組みました。
2000年はマリ共和国、2001年からカンボジアです。
2011年は東日本大震災があり気仙沼市でした。
2017年からマリ共和国に送っています。

 20018年の取り組みを紹介します。
 有浦の現地に9時集合、受付。9時20分開会セレモニー。来賓は高橋教育長、JA関係者、連合代表などでした。
 苗の「あきたこまち」はJAあきた北から毎年無償提供されており助かっております。
年内に送ることになるが収穫を1トン以上と見込んでいます。場所は有浦・大田面櫻庭不動産向いの田んぼ23aです。
 昨年から収穫した1000キロ以上のコメはマリ共和国に送っています。来賓の高橋教育長はマリ共和国の国旗まで準備して挨拶してくれました。
 参加者は大館カトリックに幼稚園児、大館国際情報学院高校、秋田看護福祉大学、会員、市民で110名を超えております。
 19年目を迎えたアジア・アフリカ支援米田植えはもっとも多くの参加者を迎え田植え日和の好天気の中一斉に始まりました。子どもたちは泥にぬかり尻もちをついても笑っています。苗を投げ入れると泥が顔に飛び歓声が起こります。賑やかに会話を楽しみながら終えることができました。
 いつもなら11時30分過ぎに終えるのに今日は11時チョッと過ぎに終えました。
 みんなでブルーシートに陣取り昼食はおにぎりとトン汁です。最高食べた方はおにぎり8個でした。びっくり!
 ALTの3人から挨拶、高校生、大学生からも挨拶をもらい笑いながら楽しい時間を過ごしました。来年も参加したい、楽しかったと感想をもらいました。
 10月は稲刈りです。どうぞ参加をお願いします。
 予定では12月にマザーランド・アカデミー・インターナショナルを通じて送ることになります。

連絡先

食・みどり・水を守る大館労農市民会議
議長   石 田 寛
事務局長 岩 本 裕 司
電話  0186-42-1800
FAX 0186-42-3855

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長木川に鮭をのぼらせる会
長木川の清流を取り戻し川のバローメーターと言われる鮭を雪沢までのぼらせようと平成4年から鮭の稚魚放流を始めました。

活動について

平成4年70,000尾
平成5年80,000尾
平成6年90,000尾
平成7年以降100,000尾
平成15年以降50,000尾
 秋(10月から11月)には60センチに成長した鮭が大橋の上から見ることができます。昔は長木川の上流の雪沢まで鮭はのぼったそうです。
 2002年の1月に10年続けたことを認めて頂き大館商工会議所から「アイラブ賞」をいただきました。
 会でも記念事業として市民による孵化事業として2002年1月から鮭の発眼卵を市民20人に配布し家庭や職場で孵化・飼育していただき4月に一緒に放流しています。 ほとんど孵化に成功しました。
 2016年から有浦小学校では全教室に水槽を設置し全校で飼育事業に取り組んでおります。学校のホームページをご覧ください。

発眼卵配布

1月、阿仁川漁協から「鮭の発眼卵」を購入。
1時間走り有浦小学校に11時30分に到着。
まもなく市民が集まり玄関前で市民への配布をはじめる。
市民への配布を終えてから有浦小学校全クラス(20クラス)の水槽へ発眼卵をお分けします。五十嵐真中公民館館長が孫たちと全クラスの前の廊下におかれた水槽に手際よく入れてくれた。それから大館市役所に向かい市民ホール前の風除室に設置した水槽にも卵を入れました。
ふ化まではろ過機のみで暗くするために段ボールなどで覆います。
ふ化後はエアーポンプが必要です。逆でもいい、最初は水も少なくしてエアーポンプでふ化を待って、負荷をしたら水槽に水を一杯にしてろ過機をつける。
いずれ大切なのは何もせず見守ることです。ふ化後水槽の上部を泳ぐようになりお腹が閉じる(透明のコップに入れて下から覗くとよくわかります)ようになってから餌をあげます。

稚魚放流

 毎年、放流日は4月の第二日曜日を予定しています。
2018年は4月8日に鮭の稚魚放流式を1時から行いました。まずバケツ50個に水を入れて準備します。子どもたちと市民合わせて100人が参加してくれました。高橋教育長と県の豊かな海づくり大会推進室から佐藤班長が挨拶。
東中一年代表が鮭へのメッセージを述べます。職場や自宅で飼育した稚魚と阿仁川漁協から運ばれた稚魚5万尾を一斉に放流します。子どもたちは「元気でね」「帰ってきてね」などと声をかけていました。秋の遡上が楽しみです。

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